2013年2月11日月曜日

左足の魔術師、フラン(元デポルティーボ)

”スーペル・デポル”と呼ばれ、欧州を席巻した田舎クラブ、デポルティーボ・ラ・コルーニャ。
当時、背番号「10」を背負い、左サイドからの正確なクロスでチャンスを演出してきたフランシスコ・ハビエル・ゴンサレス・ペレス、通称”フラン”がスペイン紙『AS』のインタビューに答えている。


―あなたがデビューして、25年が経ちました。
あっという間だね。僕がデポルでそうだったように、幸せで快適な時間を過ごしていれば、一瞬にして時は経つもんだ。全てがまるで昨日のようなことだよ・・・・

―(トップデビューとなった)ブルゴス戦のことは覚えていますか?
試合のことはそれほど記憶にないけど、緊張していたことは覚えている。
試合中もうダメだと思ったときいはあったけど、フィジカル的なことではなくて、気持ちの面でのことだった。

―キャリアで記憶に残っていることは?
良い思い出も、悪い思い出も、いずれも忘れられないものがある。
まずは、1部昇格したことだ。でも、数年後には最終節で優勝を逃したこともあった。
その後は、コパの優勝、リーガの優勝、そして100周年記念といろいろあったね。
CLでミランに4-0で勝ち、大逆転で勝ち抜けを決めたこともあった、あれは永遠に記録に残るだろうね。
とはいえ、他にもある。アーセナル戦ではキャリア最高のプレーができた。彼らにフットボールの洗礼を浴びせてやったね。そして、ドイツでは、バイエルンのホームで初めて勝ったスペインのチームにもなった。

―キャリアを振り返ってみれば、栄光の連続だったと言えますが。
1部に昇格した直後、デポルがこんなことになるなんて、誰も予想してなかった。
デポルのクラブ史上最高の時代に携われたという運もあった。
何シーズンかの辛い時期を除けば、その他は最高の思い出ばかりだ。

―あなたは6つのタイトルを獲得しました。これは、多い?少ない?
引退して、そのキャリアを振り返ってみれば、それは驚くべきことだよ。
ただ一方で、CLを戦っていた時代には、もっとタイトルを獲得できたと思うし、それだけのポテンシャルがあったはずさ。
リーガで1度、コパで2度、スーパルコパで3度。
今思えば、もっと取れたような気もする。

―アルセニオ時代のスーペルデポルをどう評価する?
全部が夢のようだったし、新たな経験だった。
降格すれすれのチームが、その後3年連続でバルサやマドリーとタイトルを争うチームになったんだからね。タイトルは取れなかったけど、最も輝かしい時代だった。もちろん、僕はその後タイトルに恵まれることになったけどね。

―そして、イルレタ時代がやってきました。
当時のチームは、スーペルデポルの時もチームのまとまりに特徴があった。メンバーも全く別物だった。代表選手やトップレベルの選手たちでチームが構成されていたから、上位を争うのもずっと簡単だった。

―引退の時のことを振り返ってくれる?
35歳になった時、若い選手たちの突き上げを感じて、引退のことをうっすら考えたんだ。
そして36歳でスパイクを脱いだんだけど、実際そのシーズン、僕はスタメンフル出場する試合がたくさんあった。その年齢にも関わらずね。まだまだ出来そうだったんだ。でも、怪我やその他の理由で、これ以上体にムチ打つのは止めようと決めたんだ。

―今のデポルにとっては、その姿を見るのは難しいですね。
僕はさながら、映画の『ラスト・オブ・モヒカン』のようだった。
フットボールにおける最後のロマンだった。
マドリーやバルサに移籍できたが、この素晴らしいチームに愛情を注いでくれるファンの前でプレーする方を選んだんだ。そういう意味でクラブ残留したのは、僕が最後かもしれない。
今はもう、そういうわけにはいかないからね。

―他のチームへ移籍しようと全く思わなかったのですか?
フットボール観点からいえば、全くだ。
僕らは、十分他のチームと張り合っていたからね。
他のクラブでプレーしていたらどうか、というのは分からない。
分かっているのは、デポルでとても幸せだったということだ。

―デポルが、倒産法を適用しました。どう思われますか?
今後の成り行きを見守ることだ。管財人が決めていくことだ。
これから数年先は、厳しい未来が待ち受けている。
セルタのように、借金を減らし、危機を脱しようとしているセルタのように、多くのクラブが苦しんでいるのを知っている。そして、デポルの財政状況は誰もが知るところだ。
将来のためには、1部残留が不可欠だ。収入、とりわけテレビ放映権を手に入れるうえでね。

―話を元に戻しましょう。背番号「10」を背負うのは重荷でしたか?
まったくそんなことはなかった。
おそらく、13歳からその番号を身につけてきたからだろうね。
今はもう、「10番」が持つ意味は少なくなったけど、僕が現役のころは価値があったからね。
器用で、試合を決定づけられる選手がつける番号だった。
とはいっても、それほど深刻に考えてはいなかったよ。

―では、チームメイトの話を。誰とのプレーが最も楽しかった?
いろんな選手がいたね。リストを作ると、とても長くなるよ。
デポルでは、とても素晴らしい選手たちと接する運を手にすることができた。
例えば、(現バジャドリー監督の)ジュキッチ。
ピッチ上での振る舞いはとても素晴らしかったし、僕らは親友でもあった。
さらに、ジャウミーニャもそうだ。
そして、試合だけでなく、練習でもキャリアを満喫していたよ。練習するのも好きだったんだ。
デポルにいた18年で、練習に遅刻したことは一度もない。
僕は本当に恵まれていた。好きなことをやれたし、子供のころの夢をかなえることができたんだからね。
もう少し長くできたかもしれない。でも、年には勝てないね。

―ライバルは?
特別にはいなかった。
最も試合を楽しみにしていたのは、マドリーとバルサとの試合。次にセルタだ。
マドリーが何年もリアソールで勝てないのを見てきたからね。

―どの監督から最も多くのことを学んだ?
あらゆる監督から少しずつ吸収していったよ。
まずは、ルイス・ウチャ。ユース時代の監督だね。僕がトップレベルに行くための基礎を作った人だ。
そして、ロドリゲス・バス。デポルのトップチームの監督を率いて、なおかつユースから5人のカンテラーノを引き上げたのは、相当な勇気がいったはず。僕をデビューに導いてくれた監督で、それからずっと重宝してくれた。
その後、アルセニオが監督に就任した。
僕を継続的に使ってくれた監督だ。周りからは、ベテランしか起用しないと言われていたけどね。
アルセニオのもとで、僕は経験を積んでいった。そして、イルレタ。彼のもとで、僕らはリーガ優勝を成し遂げた。

―では、最も言い合った監督は?
ファンからだけでけなく、監督からも大事になれたはずだ。
ただ、あえてあげるなら、トシャックだろう。
凄くプレッシャーをかけられていた。記者会見での発言が大きなプレッシャーを生んでいた。
その理由を理解するのには、多くの時間を必要とした。
ただ、引退して彼と会ったときに、話をしたけど、それまでにはなかった好印象を感じたけどね。

―あなたは選手を退きましたが、その才能は受け継がれているようです。
そうだね。僕の息子、ニコラスがいるからね。
彼の前には、自分の好きなようにできる未来がある。
父親がいたからではなく、その年齢で十分素晴らしい才能を持っているんだ。
フィジカルは圧巻だし、僕がその年齢であったころよりも急激にリズムを変えられるんだ。
全ての能力を持っている。でも、今は何よりいろんなことを吸収することが大事な時だ。

―ただ、興味深いのは右利きだということです。
大したことではないけど、興味深いね。
僕の兄の息子は左利きだけど、僕の息子は右利きだ。
どちらも父親と全く逆足が効き足なんだ。

―息子さんは、今年、レアル・マドリーかバルセロナに移籍しますか?
どちらも、その動向を追っている。
実際に見に来ているし、大会への出場を誘いにきている。
私よりもそのポテンシャルを見出しているようだ。まだ何も決まっているわけではないけどね。


http://futbol.as.com/futbol/2013/02/10/primera/1360453260_943676.html


















































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